ポストモダン以後の歴史学

 「ポストモダン以後の歴史学」は、あまりにも大きいテーマで、多くの研究者を集め、学際的なプロジェクトを組んで進めなければならないようなものなので、ここでは、ごく簡単に、過去の事実を認識するときに、言語論的転回をどう考えるかについて述べてみたい。
 これは、俺が理解する限り、「テクストはテクストであって、このテクストの内容が指し示すものは、決して真実ではなく、テクストをいくら読みこんでも歴史の真実にはたどりつかない」というものである。この場合のテクストとは、文字で書かれた史料だけでなく口承や写真・動画・絵画・遺跡(遺構)・遺物なども含まれる。
 したがって、このような考え方に基づけば、過去の真実を復元することは、基本的に不可能である。ということは、歴史学的な方法では、過去のことは何もわからないということになってしまう。
 これに対しての歴史学側からの反論はいくつかあるが、有力なものとしては、「歴史学はそもそも過去の真実を復元しようとはしていない」というものである。
 テクストから復元するのは「過去の事実」であって、決して真実ではない。なぜならば、できごとは常に合理的に生起するわけではなく、不条理なことも多い。また、当然テクストは、すべてのことを記録しているわけではないので、当然復元できないことの方が圧倒的に多く、したがって、歴史学がテクストから読み取ろうとするのは、過去の真実ではなく、特定の過去の事実である。それは、たとえば「家康の将軍就任」や正倉院文書からの「古代の家族の復元」などである。こうした事実の復元にはそれなりの訓練が必要であり、特に前近代の歴史を扱う場合は、古文書を読めるようになったりしなければならない。
 こうした事実もテクストから読み取れないとすると、それは不可知論であり、過激な相対主義、すなわち何でもありの世界になってしまう、とういうことである。
 本来、史料から過去の真実を復元できるという傲慢な考え方は、歴史学の方法論からいえば、過去の遺物であり、言語論的転回の前から、E・H・カーなどは、これに近いことを述べている。
 すなわち、南京事件において、「歴史学が、テクストから何を読み取り、それをもとにコンテクストを構築するのであるか」を考えた場合、従軍した将兵の日記や各部隊の戦闘詳報、東京の大本営や外務省職員の記録などのテクストから、1937年の年末から起きた大勢の捕虜の処刑、民間人に対する殺人・強姦・略奪が大規模に行われたことは「事実」として読み取ることが可能なのである。ただし、当時何が起きたのかを100%復元することは不可能であり、また、当時の将兵の心性のすべてまで復元することも不可能である。
 このようにテクストから復元された事実をもとにその事実に解釈を加え、なぜこのようなことが起きたのか、それがその後どのような影響を与えたのかを考察するなどの営みが歴史学である。(加えて、どのような事実を復元するかについても歴史家の主観的な要素が入る)
 南京事件の場合、統帥の問題とか、兵士の質の問題とかの観点や国際政治にどのような影響を与えたかとか、大日本帝国陸海軍の軍規にその後どのような影響を与え、その結果がどうなったとか、こういうことを研究するのが歴史学である。
 この考察が科学として担保されるのは、ポパーのいう「反証可能性」である。
 ただし、もし、大日本帝国が書類を廃棄せずに相当部分が残っていたり、当時の将兵がもっと、積極的に証言をしたりしたとしても、南京事件全体が100%復元できることはないことを理解し、謙虚な姿勢で研究を進めることが大事である。
 これにたいして、歴史修正主義的な南京事件の「研究成果」は、テクストの選び方・解釈が恣意的であり、容易に反証可能なものとなっており、はっきり言って「研究成果」ではなく、単なるプロパガンダである。
 むしろ、最近は、お間抜けで、つい本を買っちゃう「ネトウヨ」などを騙して金儲けを企んでいるのではないかと邪推するようなものも多い。
 話を戻すと、要するにポストモダン以降の相対主義的な言説は、歴史学にとって乗り越えられるべきものであり、現に多くの歴史家は、それぞれ苦闘し、方法論を考え、日ごろの研究を行っているのである。
 これは、歴史学に限らず、すべての研究者にとっても同じことである。
 したがって、他分野の研究に口を出すときは、その分野の方法論をある程度は勉強し、リスペクトをもって参入しなければならないのである。
 特に歴史学は、専門家でなくても、いろいろと口出しができる部分が多く、素人が貴重な史料を発見し、学界に一石を投じることも十分可能な学問である。ただし、その場合もその素人が学問に対するリスペクトなしで参入したら、それなりの扱いを受けてしまうことになる。
 南京事件が東京大空襲や原爆投下に比べて物証が少ないから議論になっており、それを解消するためには双方が主観のすり合わせをすべきという議論を見かけたが、これまで述べてきた方法論を無にするものである。
 そもそも、南京事件についてはまともな研究者の間では事実認識に関する論争はないのである。あるのは、歴史修正主義者が、言語論的転回に基づく相対主義でもなく、ただ、歴史学の方法を無視して、史料を捻じ曲げ、無視し、捏造して、歴史学者やまともな人々を攻撃し、無学なネトウヨにだけはうける議論?を展開し、それにまともな歴史学者や一般の市民が反論しているのである。
 本来、人文科学の方法論は、難解で、日本語の論文だけを読んでいては、駄目であり、少なくとも欧米の最新の議論を踏まえて考えなければならないものである。

 なんか、まとまりがなくなってしまったが、こうした「過去の事実の復元」という問題以外にも物語と歴史の区分とかいろいろな重要な論点はあるのであるが、長くなったし、今は書く余裕も能力もないので、この辺にしておきます。